明日の仕事にきく。読めば俄然やる気になる ビジネスキーパーソンwebインタビュー

『ドラゴン桜』作者
三田紀房

●三田紀房(みた・のりふさ)1958年、岩手県北上市生まれ。明治大学政治経済学部卒業後、西武百貨店に入社し、紳士服を担当。実家の衣料品店の手伝うため、同社を退職し、30歳のとき『Eiji's Tailor』でマンガ家デビュー。代表作はドラマ化された『ドラゴン桜』など。

特別編 後編

ドラゴン桜の原点は
小学生のころの経験?

マンガは100%自己責任の世界
マンガ家という仕事の魅力は何だとお考えですか?

三田先生: マンガ家になる前は、衣料品店をやっていましたが、そのときは自分の能力ではないところで成績が左右されることがありました。例えば、今年の冬は寒さが厳しいという予想が発表され、防寒具をたくさん仕入れたとします。しかし実際は予想が外れ暖冬になり、せっかく仕入れたものが全然売れない。商売には、そういう自分の能力とは関係のないものに左右されることがあり、なんとなくスッキリしないものを感じていました。

でも、マンガ家は、100%自分の能力次第なんです。読者に受けるかどうかは自分の能力にかかっているんです。そこが一番の魅力ですね。

完全に自己責任の世界なんですね。

三田先生: そうです。商売のように取引先が倒産して、その影響で共倒れ、なんていう外的要因はないですから。

過去の蓄積が今に活きる
小さいころはどんな子どもでしたか?

三田先生: 図画工作は得意でしたね。何度も絵で賞をもらったこともあります。

デビュー前は「マンガの心得はなかった」とおっしゃっていましたが、やはり才能はあったんですね。

三田先生: そんなことないんですよ。でも、「言われたことを素直に聞いて、それをアウトプットする」というのをそのころから実行していました。

具体的には?

三田先生: 確か小学校1年生のときだったと思いますが、学校の屋上から見える街を描いた絵が市から表彰されました。その時の審査員が「この絵は真ん中に煙突が描かれている構図がいい」とおっしゃっていました。それで私は「なるほど、真ん中に目立つものを持ってくればいいんだ」と思い、それからはずっと「真ん中に目立つものがある絵」を描いていたんです。

絵以外で好きなものはありましたか?

三田先生: テレビが好きでした。よく向田邦子さんのドラマを見ていました。

年齢の割には渋い好みですね。どんなところが好きだったのですか?

三田先生: ただ親が見ていたから、一緒に見ていただけなんですが、子どもが見ても単純に面白いと思えるものでした。マンガ家になった今振り返ってみると、最初にコメディーの要素があり、人情話が続き、最後にはほろっと涙するというストーリー構成は参考になっています。

なるほど、絵にしろ向田さんのドラマにしろ、小学生のころの経験が今に役立っているわけですね。

三田先生: 過去の蓄積はとても大事なものだと思います。子どものころの経験というのは、誰しも自分の中に蓄積されていくものです。それが形を変え、アイデアとして再生産されて表に出てくるのではないでしょうか。

成功の秘訣は「バスの行き先理論」
読者に成功の秘訣をアドバイスしていただけますか。

三田先生: 意識して成功例、そして失敗例からルールを作ることが大切だと思います。無意識のままでは同じことを繰り返しているだけですから。

私の場合は読者アンケートが参考になりましたね。そこからどんなものが受けるのかをルール化したわけです。もちろん、マンガ家自身の「何を描きたいか」も大切ですが、市場ニーズをきっちり分析して、そこから成功するために必要なルールを導き出すことが必要だと思います。

三田先生はそこからどんなルールを導き出されたのですか?

三田先生: 大げさに表現すること、そして「バスの行き先理論」です。

「バスの行き先理論」というのは?

三田先生: バスは必ず行き先が決まっていますよね。だから、その行き先に行きたい人しか乗らないわけです。それと同じように、『ドラゴン桜』は、「東大合格」という目標に共感する人たちをひきつけたわけです。ビジネスでも行き先=目標がはっきりしていないと、周りの人は自分についてきてくれません。だから、自分の目標や特徴というものをしっかりとアピールして、それに賛同してくれる人を集めれば、きっと成功できると思います。

編集を終えて
マンガ家というと特別な職業だと思っていたが、成功するために必要な要因は、驚くほどビジネスと共通する部分が多かった。『ドラゴン桜』の影響で、東大に挑戦する受験生が増えたという話も聞いた。多くの人がこのマンガに勇気付けられたのだろう。今後も、読むと勇気がわくような作品を書き続けていただきたい。 (インタビュアー:まぐまぐ 野田宜成)